追悼「それでも美しい戦と戦歌」(高木東六&久世光彦)

作曲家の高木東六さん死去、102歳

 ささやかな追悼と云うことで①昔の切り抜きを探し、②文字起こししたところで力尽きました。

 多くのメディアが『水色のワルツ』を代表作にあげていますが、ご本人は『水色〜』を毛嫌いし、『空の神兵』を好んでらしたんですよね。皮肉なものです。

 つーか自分、『空の神兵』大好きなんすよ。明るい洋旋律(?)にのった歌詞が美しくも、どこかしら哀しくもあって、B面は『海ゆかば』ね、みたいな。

 そう云うところが、軍歌に沈溺するような愛国の輩にはウケが悪いみたいで、ブンパカブンパカお囃子する際にはあまり使われないようですが、まあ、おめえらはそれでいいや。

 んで、若い人は知らないかもなので、こっそりアップ。こんな曲です

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それでも美しい「いくさ戦歌いくさうた

久世光彦(作家・演出家)&高木東六(作曲家)、『諸君!』平成13年9月号掲載

習志野第一空挺団

久世 ぼくは高木さんの『空の神兵』が軍歌の一等賞だと思っているんです。
 ぼくは昭和十年の生まれですから終戦時が国民学校四年生。つまり、ラジオを通してリアルに軍歌に接した世代なんですが、軍歌というのはマイナーで暗く哀しいものが多かった。ところがこの歌だけは、実に明るく美しいんですね。
 一面の青空に、まるで花びらのような落下傘がパッ、パッと開いていく──そんな大きな風景画のようなものが頭に浮かんでくる。
 ぼくは二番の「この山河も敵の陣」というところが特に好きです。これから降りていくところが全部敵だと思ったら、明るくしてなんかいられないはずだとも思うんですがね(笑)。
 ただ、落下傘から眺めた眼下のゴム林はとても瑞々しく見えただろうし、たぶん敵兵も、大空に開いた白い花びらに見とれていた──これから血みどろの戦いが始まる直前の、ほんの束の間の明るい静けさが感じられるんです。
 語弊を恐れずに言えば、戦争の美しさみたいなものが浮かんでくるんですね。
高木 どういうわけか、この歌は今でも歌われているようです。
 以前、よく知り合いに誘われ、横浜の高級クラブに遊びに行ったんですが、カラオケで五十歳くらいの若い人が『空の神兵』を歌うのね。「あなた、戦後の生まれなのによく知ってるね」と聞くと、レコードの「軍歌集」なんかで覚えたと。
久世 ぼくのまわりにもそういう人はたくさんいますよ。
 でも、この歌は昭和十七年二月、日本軍の落下傘部隊が白昼堂々、スマトラ島パレンバンに効果、激戦の末占領した事実をモチーフに作られたものです。
 ぼくはラジオでそのニュースを聞き、同時に『空の神兵』を聞いていますから、若い世代の連中と違って、まことに正しくヽヽヽ聞いているんです(笑)。
高木 二、三年前自衛隊に招かれて習志野第一空挺団の演習を見にいったんですよ。この日は、新米の隊員が初めて実際に飛行機から降下訓練をする日だったそうです。
 ちょうどぼくらの真上に輸送機が来たとき、〈新兵さん〉がどんどん降下してくる。落下傘がパッと開くのに合わせて、地上に控えていた楽隊が『空の神兵』の演奏をはじめたんですよ。驚きましたねえ。感動しました。まわりにいる自衛隊の人たちもみんなで歌い出して。この歌は部隊のテーマ曲みたいになっていて、ことあるごとに演奏しているそうです。
 ただ、今の落下傘というのは白くないんですね。なんだか緑色みたいではっきりしないですから「真白き薔薇の」というわけにはいかなかった。
久世 考えてみると、藍より蒼い大空に真白の落下傘じゃあ、標的にしてくれと言ってるようなものですね。
高木 残念だけど仕方がないね(笑)。

■『水色のワルツ』秘話

久世 高木さんの大ヒットといえば、誰もが第一に『水色のワルツ』をあげると思いますが、以前、高木さんご自身は『水色のワルツ』よりも『空の神兵』が好きだ、と発言されているのを聞いたことがあります。
 代表作として軍歌をあげられるのは、なかなか勇気のいることだと思いますが、どうして『空の神兵』なんでしょうか。
高木 『水色のワルツ』は、ぼくが作った曲の中で唯一、演歌歌手のために作ったものなんですよ。
 でも、ぼくは演歌が大嫌い。日本の歌は演歌も歌謡曲もみんなそうですが、五音階の繰り返しで、ハーモニーも何もない野暮ったいものです。そういう曲に、惚れたとか、泣いたとか、別れたとか、そんな歌詞をのせて、〈こぶし〉を聞かせて唸るのを〈嘆きのメロディー〉とか〈日本の心〉だなんて自慢しているのは、文化がありませんといっているのと同じです。
 だから、ぼくは演歌を作曲しようと思ったことは一度もない。
 ただ、戦中、長野県の伊那に疎開して、戦後昭和二十七年までそこに住んでいたんですが、クラシックの作曲家に仕事なんかない時代です。たまに米軍のキャンプにピアノの演奏に言って糊口をしのぐのが精一杯でした。
 ぼくはそのころオペラを作曲していたんですが、オペラなんて作っている間は一文にもなりません。一方、ラジオからは惚れた、別れたの安っぽい演歌ばかりが流れ、それが大金に化けていることを悔しく思って暮らしていたんです。
 「このくらいのものだったら、ぼくにはいつでも作れる」「いやもっといいものを作れる」と思っていたんですね。
 それで、天竜川の土手を散策していたときに、ふっと頭に浮かんだメロディーを曲にして、作詞家の藤浦洸さんに、詞をつけてくれと送った。彼は音楽好きで譜面が読める詩人でした。
 そうしたら『水色のワルツ』という素晴らしい詞がついて返ってきた。ぼくは自信をもって、当時専属をしていたビクターに持ち込んだんですが「レベルが高すぎて売れません」と断られた。それで、専属契約を打ち切って、コロムビアから出してもらうことにしたんです。
 最初は、ビクターのいうとおりなかなか売れませんでしたが(笑)、昭和二十七年にこの歌を主題歌にした「水色のワルツ」という映画が封切られたのをきっかけに大ヒットして、なんとかコロムビアへの義理も果たせた。
 だけどこの歌は、ぼくの得意とする長音階でではなく、日本人好みの哀愁漂う短音階を使っている。まあ、演歌歌手のために作ったものですからね。
久世 ぼくは演歌も好きだから、高木さんの方に割り切れないけど(笑)、この歌は音域がすごく広いでしょう。とても演歌とは思えない。歌い出しの「君に逢ううれしさの」なんて、ものすごく高いでしょう。
 最初、二葉あき子さんが歌われたけど、双葉さんも芸大出身で、クラシックの声楽教育をきちんと受けた人です。演歌のようにみんなが歌える歌じゃない。
高木 そうなんですね(笑)。
 ぼくは演歌歌手のために書いたんですけど、結局、演歌歌手は誰一人歌えなかったんですよ。やっぱりきちんとした声楽家でなければダメでした。
 ただ、音楽著作権協会から入る楽曲使用料が一番多いのは「水色のワルツ」。今でも印税が入ってくるのはこれだけですから、演歌をもう二、三曲作っておいてもよかったかなあと思う(笑)。

■「お前、これは流行らないよ」

久世 日本人は短調が好きで、演歌はもちろん軍歌は特にそうですね。それなのに、『空の神兵』だけは特別明るいのはどうしてでしょう。
『加藤隼戦闘隊』なんかはまだ明るい方ですが、「エンジンの音轟々と」というところはいいんだけど、サビの部分から転調して、「勲のかげに涙あり」というところは、やはり短調マイナーになる。
 軍歌というのは音楽のレベルよりも、やはり戦意高揚というテーマが大きいから、どうしても情感に訴える短調が好まれるんでしょうが、『空の神兵』は、その辺をあまり考えていなくて(笑)、純粋に〈音楽〉として書かれたところがよかったと思う思うんです。
 軍歌を女性歌手が歌うというのも新鮮でした。たしか一番を歌ったのは四谷文子さんでしたね。また、イントロのところでカーン、カーン、カーンと三度鐘が鳴り、この歌の明るさを際立たせていますが、あれも高木さんのアレンジですか。
高木 そうです。全部、一人で作りましたから。
 たしかに、ぼくはあの歌を作曲するときも、戦意高揚とか、そういうことは考えなかったなあ。
 ぼくは、軍人が威張り散らして特別の権力を振り回していたあの耳朶以外や泥やで仕方なかった。
 特に『カルメン』や『椿姫』といったオペラを禁じた文化性の低い政治家にも憎しみを抱いていたし、そんな次元の低い人たちが起こした戦争にも怒りを覚え、とても勝てるとは思えなかったんですよ。
久世 高木さんは戦争がはじまったころ何をされていましたか。
高木 宝塚歌劇団に指揮者として招かれていました。
 クラシックの作曲家は常に、自分の曲が実際にオーケストラで演奏されるとどうなるか聞きたいという欲望があります。宝塚はオーケストラをもっていましたから、ぼくにとってたいへん貴重なチャンスだった。それに宝塚は月給制で、大阪の高級ホテルから通うことができるくらい恵まれた条件だったんです。
 宝塚時代には実に恥ずかしい大失敗をしました。
 宝塚名物のラインダンスがありますね。指揮者はあの真ん中で指揮棒を振りますから、若い娘さんが足を振り上げるたび、その脚がぼくの頭の上にきて、太股の奥が丸見えになるんです。
 ストリッパーのような玄人の女性ならコルセットのようなものをつけているし、まあ毛剃りなんかもして客には見えないようにしているものですが、当時の素人の若い娘さんは、いたって天真爛漫というか無神経というか……ガードルの脇から黒いものがはみ出している(笑)。
 ぼくはボーッと見とれてしまい、オーケストラの演奏はとうに終わっているのに、バカみたいに指揮棒を振り続けていたことがありました。
 でも、そのラインダンスもすぐに禁止され、トランペットのことを「真鍮曲がり喇叭ラッパ」なんて呼ぶようになり、演目も、恋愛ものや悲恋ものは風紀を乱すとして禁止され、愛国の勇士といったがさつなものしか許可されなくなった。
 そして最後は「女は女らしくせよ」と、男役が禁止された。
 ぼくは一年ほどで宝塚をやめて東京に戻ります。ここからがぼくの暗い時代。
久世 しかし、その直後に『空の神兵』を作られましたね。
高木 ぼくのような音楽家は文学者なんかと違って楽譜ばかり読んでいるものだから、思想的には恥ずかしいほど貧しくて、憤りや不安を胸に抱くだけで、行動には移せなかった。だから、嫌々ながらも軍歌を作るしかなかったんです。そして、それがヒットして印税が入ってくることに、汗の出るような恥ずかしさを感じていた。
 戦争中は軍か演歌しか作れなかったから、仕方なく十曲ぐらいは軍歌を作曲したと思います。でも、他の歌はテーマにとった軍艦が沈没したりすると、歌われなくなり、忘れられてしまった。
 ただ、『空の神兵』は、レコード会社の人が梅木三郎さんの歌詞を持ってきて、それを呼んだ瞬間、ぼくの頭にさわやかなイメージが広がったんです。簡明、直截、かつ美しいイメージはこれまでの軍歌にはなかったものです。「これなら作れる」と瞬間的に思いました。
 本当は、三番の「敵撃砕と/舞い降る/舞い降る」のところが、激しい戦闘意欲を表すようで、あまり好きではなかったんです。でも、そのあとの「いずくか見ゆる/おさな顔」というところがよかったから、まあいいか、と。
 当時は、西条八十さんまでもが、「出てくりゃ地獄へ逆落とし」なんて恐ろしい歌詞を書いていましたから、このくらいで文句は言えない(笑)。
 あの曲は、ぼくの曲作り、曲想そのもので書くことが出来たから、たしか十五分くらいでできあがったと思います。
 思い通りの曲ができたので、側で針仕事をしていた母に、勢い込んで聞かせたところ、「お前、これは流行らないよ」ですって(笑)。やっぱり、明るい曲想が軍歌らしからぬものと思ったんでしょうね。
 ところが、母の予想に反して、レコードがでるやいなや空前の大ヒットになった。
 ぼくは軍歌を書いたという気恥ずかしさがあって素直に喜べなかったんだけど、戦後、NHKの人から、「戦時中、ドイツが日本の国情を調べたんだけど、どうにもよくわからない。それで、日本には『空の神兵』という軍歌があり、これは楽曲としてのレベルがものすごく高い。こんなレベルの高い軍歌を作る国は、きっと国そのもののレベルも高いはずだ、と報告したそうです」と聞いて、はじめてうれしく思いましたね。

■オペラ『春香』と愛国心

久世 伊那時代といえば、そのころ高木さんが書かれたオペラ『春香』が、来年サッカー・ワールドカップ日韓共催に逢わせて半世紀ぶりに上演されるそうですね。『春香伝』は韓国の『忠臣蔵』といわれるほど古典中の古典だそうですが、どうして高木さんがこの曲を作られることになったのですか。
高木 戦後すぐ、当時の朝鮮連盟の人が伊那の山奥まで訪ねてきて、『春香伝』をモチーフにオペラを作曲しないかといってきたんです。
 ぼくに白羽の矢がったのは戦前、『朝鮮舞踏組曲』を作ったことがあるからでしょう。この曲を作るために、朝鮮の民族音楽のルーツを探す取材にも出かけ、現地の人たちが演奏する民族音楽を、そのまま五線紙に採譜したりしました。それをぼく流にアレンジして、ハーモニーをつけ、再構成したんです。
 これは、当時の一流の舞踏家だった趙沢元さんの依頼で作ったものでした。
 この組曲の第一部「朝鮮の太鼓」を、レコード会社のビクターが満州国建国記念の懸賞楽曲に応募したところ、なんと一等をもらった。いくらかは忘れたけど、とにかく大きな賞金ををもらったのを覚えています(笑)。
 さらに、文部大臣賞ももらうことにもなり、すっかり有名になった。それを知っていたから、『春香伝』も出来ると考えたんでしょうね。
 驚いたのは、このときの申し出があまりに破格だったことです。作曲料の他に、完成するまでの月々の生活費も保証してくれるというのですから。
 日本人でこんな申し出をしてきた人は、戦前戦後を問わず、誰一人いません。
 『空の神兵』にしても『水色のワルツ』にしても、ぼくのヒット曲はみんな日本の音楽、文化に関する考え方に反抗して出来たものかもしれません。戦前は、敵である西洋の楽曲を禁止したり、軍歌しか作ってはならぬといってみたり。戦後自由になるかと思えば、こんどは儲かる演歌と歌謡曲ばかり……。
 そんなことをしながら文化国家を目指しますなんてふんぞり返っている日本に比べて韓国はたいしたものだと感心しました。韓国人の愛国心というのを、けして侮ってはならないと。
 当時、在日朝鮮人の人たちは、祖国が植民地から解放された喜びで高揚していました。そのとき、内向きにならず、その喜びをオペラという西洋文化で表現しよう、しかも、作曲を昨日まで仇敵としていた日本人に依頼しようなんて、よく思い切ったと思います。
久世 たしかに彼らの〈国家〉に対する感覚を、日本人は学ぶべきかもしれませんね。
 高木先生が留学されていた昭和初期のパリにも同じような雰囲気があったのではないかと思います。
 フランスには強烈な愛国心がある一方、その文化はヨーロッパ中から集まった外国人たちが作り上げたもので、フランス人はそれを貶すどころかフランス文化の粋として誇っているでしょう。ピカソにしてもアポリネール二しても、、みんなパリに集った外国人です。
 日本人はナショナリズムと聞くと、すぐに内向きで偏狭な気分になる。愛国心というのは、必ずしも排他的になる必要がないのかもしれませんね。
高木 そのとおり。それで二年間、まさに心血を注いで完成し、昭和二十三年に上演にこぎ着けました。
 ただ、ひとつ問題があって、『春香伝』は名門貴族の御曹司・夢竜と、賤民退妓の娘・春香との恋愛物語なんですが、もともとは最後がハッピー・エンドなんです。しかし、オペラというのは、『カルメン』にしても『椿姫』にしても、悲劇で最後の主人公が死ななくては絵にならない。
 それで、演出、脚本を担当した村山和義さんと相談して、春香の死によって終わる悲劇にしたんです。
 昭和二十三年にこのオペラを上演したとき、ラスト・シーンで、観客の間から、どよめきが起きました。違和感があったんでしょう。
 それでも上演は大成功で、ぼくはよくぞ成功したという思いで涙が出ましたけど、こんど上演するときは、ハッピー・エンドに書き換えなくちゃならないかもしれない。もう五十年以上前の曲だから、書き直せるかどうか自信がないけど(笑)。

藤原義江美空ひばり

久世 高木さんは、正統的なクラシックの声楽を身につけていない歌手にはずいぶん厳しいですが、戦前、しばしば演奏旅行などで〈われらがテナー〉藤原義江さんの伴奏をつとめられていますね。
 藤原さんは、音楽的にはずいぶんデタラメな人だったらしい(笑)。
高木 あれにはマイりました(笑)。
藤原さんは譜面が全然読めない。だからハーモニーとかそういうのは全部デタラメで、音楽的教養はまるでない人でした。
それに、きちんとした演奏会でもデタラメをやるんだなあ。メロディーやハーモニーだけじゃなく、最初は『からたちの花』を歌っていたのに、途中から突然、『この道』を歌いだしたるするんですよ。それで伴奏がずれると、いかにも伴奏者が間違えたって表情で、こちらをジロリと睨むのね(笑)。
 危ないんですよ。こっちは藤原さんが何をしでかすか戦々恐々でした。
 ただ、あの人は声がよかったし、歌というものに対する理解力があった。音楽的に分析なんかはしないんだけど、ある歌についてはけしてほかの人には歌えないフィーリングをつかんでいた。
 『鉾をおさめて』とか『からたちの花』なんかは絶品でしたね。そういう意味では、やはり才能があった。
 それから美空ひばり、彼女はやっぱり天才でした。
 戦後、ラジオ番組で彼女が歌う『あまのじゃくのうた』というのを、ぼくが作曲したんです。ところが、ぼくの曲想と彼女独特の歌い方がマッチするかどうか不安だったので、一度、レッスンを付けにいったことがある。
 すると、もう、一回で全部覚えてしまうんですよ。曲の取り方というか解釈の仕方が早い。それで、ぼくの考える以上に細やかに歌うんですね。ピアノを弾いてメロディーを出したら、もう次にはきちんと歌えるんだから本物の天才です。
 ああいう人は今はいなくなったね。
久世 ぼくも二十年ほど前、ドラマのテーマ曲を美空ひばりでやったことがあります。
 あのころ、録音はすでに8チャンネルや16チャンネルの時代で、伴奏は伴奏だけ、歌は歌だけで録音して合わせる多重録音の技術はありましたが、彼女の場合だけは、楽団がそろって、ヨーイ、ドンで録音したんです。楽士たちもスーツにネクタイで緊張してるんですよ。本番三分前なんていうとクタイを結びなおしたりして。
 そこに彼女が現れて、いつも一発勝負。ライブと同じで二回はやらない。ぼくは端で見ていて、こういう緊張感はなかなかいいもんだと思いました。
 ところが、いまはコンピュータで音楽を作る時代。ドラマの作曲を依頼して、二時間ドラマなら四十曲くらいは作ってもらうんですが、「できました」って作曲家が持ってくるのはフロッピー一枚。なんか、音楽という感じがしないんです。
高木 藤原さんも、ひばりさんもみんな亡くなったねえ。『空の神兵』を歌った四谷文子は東京音楽学校(現芸大)の同級生だったけど、みんな亡くなった。
久世 そりゃ、先生も九十七歳ですから(笑)。ただこのお年で耳がしっかりしているのはすごい。森繁久八十八ですけど、もう耳がちょっとね。
 森繁さんは、いまでもアカペラなら、ハートがこもった実に感動的な歌を歌われるんですが、伴奏が入ると、音程が正しく取れないから残念です。
 高木さんには健康の秘訣がありますか。たとえば食べ物とか。
高木 とくにないなあ……ただ、ぼくは肉党でね。魚は食べない。すき焼きだったら毎日でもいい。
久世 意外に、昔の人は肉をよく食べるんですね。映画監督の市川さんなんて八十五歳で毎日ステーキを食べてる。ぼくなんか百五十グラムがせいぜいなのに、二百五十グラムをペロリですから。亡くなった黒澤明さんも肉の信奉者で、肉だけ食べて生きてた(笑)。
高木 お豆腐とかお芋は嫌いですね。みんな年寄りはそういうものが好きだろうと思っていますけど、肉を食べて生きてきた人は死ぬまで肉を食べるんです。
久世 煙草は?
高木 つい最近まで一日四十本。去年、怪我をして入院してからは十五本くらい。
 煙草が健康に悪いなんて嘘。私をみてもらえばわかる(笑)。
久世 ぼくはお酒を飲まないんですが、先生は?
高木 縁はしましたけど、飲んでますよ。最近はさすがに医者もやめろといわなくなった。
久世 長寿の秘訣は酒、煙草、それに女かな?
高木 女だけは面倒くさいからやめたんです(笑)。
 まあ、あるがままが一番いいんですな。

■音楽後進国・日本

久世 ぼくは最近の歌を聴くたびに、いま二百万枚、三百万枚売れてる歌謡曲は、三十年たったら誰も覚えていないんじゃないか、と心配になるんです。
 最近の歌は、タイトルにしても歌詞にしても、あまりに個人的なことばかりで、歴史とか時代というものがまるで感じられない。
 『空の神兵』は、いいか悪いかは別にして、〈新兵〉という言葉に、当時の時代が含まれている。
 ぼくはこの歌を聴くことで、戦争前の日本にはたしかにあった〈国〉とか〈国民〉というものに対する感情、連帯感──かつてそれを〈小国民の矜持〉と書いたことがありますが──を思い出すんです。
 昔はそういう歌がたくさんありました。『鉄道唱歌』も、なんてことない歌ですけど(笑)、みんな歌えますね。
高木 「汽笛一声新橋を/はやわが汽車は離れたり」
久世 「愛岩の山に入り残る/月を旅路の友として」
これも、文明開化時代のいろんな要素が歌に取り込まれているから、人々の心に残っている。
 楽器にしても技術にしても、昔よりはずいぶん発達したのに、耳に残る歌がない……。
 昔は「歌の〈文句〉」といいましたね。いまはみんな〈歌詞〉になってしまって、文句というのがなくなった。ぼくはそれが残念で、せめて『マイ・ラスト・ソング』に残したいと思っているんです。
高木 久世さんは若いのに偉いねえ。
久世 若いっていっても、もう六十六歳ですよ(笑)。
高木 ぼくには音楽以外の才能、能力というのが本当にからっきしないから、そういうことを考えたり、したりすることができない。
 ただ、自分の人生を振り返って、本当に恵まれていたと思うんですよ。音楽しかできないのに、なんとかそれだけで生活することができたんですから。
 『空の神兵』も『水色のワルツ』も、後の世に残そうなんて思って書いた訳じゃないけれど、幸い、いまでも歌ってくれる人がいる。
 戦争にしても、徴兵の年齢をオーバーしていたから助かった。もし兵隊にとられていたら、ぼくなんかすぐに死にましたよ。また、会社員になっても、すぐにクビですね(笑)。
 もし、いまの世の中に対していいたいことがあるとしたら、日本は経済大国といわれて久しいけれど、音楽に関してはまだまだ後進国です。演歌や歌謡曲じゃなくて、きちんとした音楽を楽しむことができる国にならなくては、本当の大国ではない。
 五音階の〈日本のメロディー〉をありがたがるばかりでなく、八音階のハーモニーを楽しめる国民になってほしいし、朝鮮の人のように、そこに日本の心を込めることだってできるんです。
 いまの小泉総理大臣はオペラが大好きだというから楽しみですけど、国の偉い人たちにも、もっと音楽に対して深い造詣をもってほしいですね。